戦争の記憶~祖父の書より~

家族
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今年2020年は戦後75年という節目です。私の祖父は陸軍士官で、戦時中は偵察機のパイロットをしていました。幸いにして特攻隊には組み入れられませんでしたが、士官学校の同期生の多くは特攻隊として若い命を散華させたとのこと。それだけに、戦争について考えるところは非常に多く、またあまりもの残酷さ故に、孫である私には殆ど語ってくれなかったのかもしれません。

先だっての7月7日の七夕の日が祖父の10回忌でした。新型コロナの影響で帰郷できませんでしたが、改めてここに祖父の手記を紹介し、二十歳そこそこの若者があの戦争の時に何を考えていたのかを残しておこうと思います。

近年まで、戦時中の事を描いた映画や小説はたくさんありますが、私はどうもどれもピントがずれているようなきがするのです。そのようなときに、この祖父の手記に出会いました。

かなり長いですが、お読みいただき、何か心に感じるものがあれば幸いです。

特攻とは何であったのか

一ノ瀬健二郎

特攻を論ずるに当たって

 航空士官学校の同期生の一人に、「あれは石ころを沖縄の海にバラ撒いたようなものだった・・・」と言う人がいます。また、少年飛行兵出身の人に、「あれは犬死にです・・・」と言う人がいます。

冷静に考えると、この批評は、問題の核心に鋭く迫る物があります。

 しかし、特攻隊員の遺族や、特攻隊員であったが出撃に至らなかった人達には、名誉を著しく傷つける言辞と思われるでしょう。

 ここに、この問題の難しさがあります。戦後50年を過ぎて、もう、歴史的評価を加えて良い時期に来ていると思いますが、「特攻」そのものに対する冷静な評価が、特攻隊員の遺族や、特攻隊員であったが出撃に至らなかった人達に、受け入れられるかどうか、慎重にならざるを得ないのです。

 東京の世田谷山観音寺には、特攻観世音菩薩が建立されています。此処の住職は、高木俊朗著「知覧」を評して、「あの書物は特攻隊を冒涜誹謗した書である」と言われたそうです。

 しかし、冷静に事実を評価することと、特攻隊員の崇高な精神を讃仰することとは、厳しく別けて考えなければなりません。

 特攻隊員の遺族の多くは、「特攻隊員は、最新鋭の戦闘機に乗って、敵艦に突入して撃沈して戦死した」と信じているに違いありません。

 それを、「実は、特攻機の30%はボロ飛行機で、有効な攻撃を加え得たのは、僅かに16%程度だった」と、本当の姿を明らかにするのは、勇気のいる事です。

一枚の遺書

昭和56年(1981年)3月、鹿児島県知覧町の知覧特攻平和会館で、

「完全ナル飛行機ニテ出撃致シ度イ」

と書いた遺書を見ました。

その時は、まさか、これが同期生が書いたものとも思いませんので、名前もメモしないで帰りましたが、この遺書の事は何故か何時までも忘れることができませんでした。

それから12年後、平成5年(1993年)6月、映画「月光の夏」を見ました。

この映画は、御覧になった方も多いと思いますが、特攻隊員が出撃を前にして、佐賀県鳥栖市の小学校のピアノをかりて「月光の曲」を弾く話です。

 この映画の中に、知覧の特攻平和会館で見たあの「遺書」が大写しで映写されました。私は今度こそ忘れないように、その署名をしっかりとメモして帰りました。そして、まさかとは思いながら同期生名簿を繰って見ましたら、まぎれもなく同期生のものでした。

後藤光春君です。

 彼は、昭和19年4月20日、陸軍士官学校を卒業し、航空に転科し、陸軍明野飛行学校で戦闘機の操縦訓練を受け、昭和20年3月操縦教育を修了し、特攻隊に編入された後、昭和20年5月25日、沖縄周辺洋上にて特攻戦死しました。

 その彼が遺書を残していたのです。

「陸軍航空特別攻撃隊史」(生田惇 著)という本があります。これによりますと彼は第66振武隊隊長として、昭和20年5月25日鹿児島県万世基地から出撃し沖縄周辺洋上にて特攻戦士シました。

 この本で判明した事は、彼が乗って行った飛行機は、97式戦闘機だったことです。

 97式戦闘機と言っても知らない人が多いかも知れませんが、この飛行機は、昭和12年に制式採用され、昭和14年のノモンハン事変の頃には大活躍しましたが、昭和20年の沖縄戦の頃には、制式採用後8年も経過した老朽化した旧式戦闘機でした。もう、実戦には使い物にならず、練習機に使われるようなオンボロ飛行機だったのです。

 オンボロ飛行機というだけではわからないと思いますが、これを現在の自動車にたとえて言うならば、廃車寸前の軽自動車のようなもので、これで、最新の3000ccの高級乗用車に対抗せよと言うに等しい事なのです。

 これに100kgの爆弾を搭載して離陸すると、重くてなかなか浮き上がらず、飛行場の端でようやく浮き上がるような非力さで、飛ぶ速度も遅くて沖縄まで飛んで行くのでさえ大変で、途中で敵の戦闘機に出会うと空中戦もできずに、ひとたまりもなく撃墜されてしまうような飛行機でした。

 後藤君が乗って行った特攻機はこんな飛行機だったのです。

 第65振武隊隊長として97式戦闘機で出撃戦死した同期の桂 正君は、「こんなノモンハン時代の97式戦闘機で部下を死なせるのは残念だ」と口惜しげに漏らしていた、と言われています。

 国民の大多数の人は、特攻隊員は最新鋭の戦闘機に乗って出撃し、見事に敵艦に体当りしたと思っておられるでしょう。ところが陸軍の特攻機の約30%(約280機)は97式戦闘機や、99式直協偵察機のような老朽機だったのです。こんな事は写真にも報道されませんでした(国民の眼には見せたくなかったのでしょう)。

 それに、特攻攻撃が開始された比島作戦の当初はともかく、その後は護衛戦闘機は奄美大島の南まで言ってそこから引き返したと言われています。それから先は、敵戦闘機の跳梁する海域を護衛なしに飛ばねばなりませんでした。

 特攻隊員たちは、戦果確認の飛行機を同行して貰えない事を、憂慮していたと言われます。つまり、出撃してしまえば、”後は野となれ山となれ”だったのです。

 後藤君が出撃した5月25日は、前記「陸軍航空特別攻撃隊史」によれば、特攻機64機が出撃しましたが、その中の「4式戦闘機24機の外は大きな戦果は上げられなかつたようだ」と書いてあります。そうすると、それ以外の40機はどうしたのでしょうか。

 おそらく沖縄迄の途中で、海に墜落したか、敵の迎撃戦闘機に撃墜されたか、敵艦の防禦砲火に撃墜されたか・・・誰にもわからないのです。

 特攻機の奏功率は16%だったと言われています。

 大本営が大きな戦果があったと発表していたにもかかわらず、特攻攻撃はそれほど大きな戦果は挙げていなかったのです。大本営が発表した戦果が本当ならば沖縄周辺には敵の軍艦はいなくなっていた筈です。

 後藤君たちは、新鋭戦闘機が欲しかったに違いありません。

 後藤君だけではありません。老朽機に乗って出撃した特攻隊員はみんな新鋭戦闘機に乗って行きたかったに違いありません。

 特攻隊員は、みな立派な遺書を残しています。

 家族に対する切々たる遺書を残した隊員もあります。

 航空士官学校の第3中隊(佐竹隊)の同期生、中村実君の絶筆があります。

飛行機を作ってくれ   君達だけは信頼する
大楠公の精神に生きんとす
お母さん    お母さん
今 俺は征く  母と呼べば母は山を越えてでも
雲の彼方からでも馳せ来る
母はいい  母ほど有難いものはない  母!   母!

 私はこれを読むたびに涙が溢れるのを抑えることが出来ません。

 後藤くんも、これと同じく、家族に対する切々たる思いがあったに違いありません。にもかかわらず彼は「完全な飛行機で出撃したい」と敢えて書きました。

 厳しい精神教育を受けてきた身には、特攻で爆弾を抱いて敵艦に体当りして死ぬ覚悟は出来ていても、与えられた老朽機では、果たして沖縄まで到達できるのか、敵戦闘機の襲撃をかい潜って敵艦に肉薄できるのか、搭載している100kgの爆弾で敵艦を撃沈できるのか、確信が持てない。・・・もっと高性能の新鋭機が欲しい、もっと強力な爆弾を搭載できる飛行機が欲しい、・・・最初で最後の特攻攻撃には失敗できない・・・間違い無く命中するには新鋭機が欲しい・・・彼はそう叫びたかったに違いありません。

「完全ナル飛行機」とは

 後藤光春くんは、「完全ナル飛行機ニテ出撃致シ度イ」と書きましたが、「新鋭戦闘機がほしい」とは一言片句も言っていないのです。

 後藤君の弟さん(後藤慶生氏)が編纂した「後藤光春の実録」という冊子(162頁)があります。

 この中に、後藤光春君が、昭和20年4月1日、特攻隊第66振武隊長を拝命して、昭和20年5月25日特攻出撃までの日記を克明に記載してあります。この中にも、新鋭戦闘機がほしいとは全然書いてありません。ここには、11人の部下を引き連れて、老朽機を修理しながら、兵庫県加古川飛行場から鹿児島県知覧・万世飛行場に到着するまでの、想像を絶する苦闘の日々が書かれています。

 加古川から知覧・万世までは、その当時でも数時間の飛行で到着できる距離です。

 昭和20年4月4日、加古川飛行場にて飛行機(97式戦闘機)受領

      4月6日、加古川飛行場出発

      5月3日、鹿児島県万世飛行場到着

 加古川から万世まで約1ヵ月を要しています。

 その間、山口県防府飛行場、熊本県山鹿、隈の庄、菊池、佐賀県眼達原、福岡県大刀洗各飛行場を転々と移動して、整備を続けなければなりませんでした。

 本来、完全に整備されて作戦任務に即応できる飛行機を与えられるべきなのに、彼らは自分で器材の所在を探さねばなりませんでした。

 エンジンの装換、プロペラの装換、折損した脚柱の取替え、尾輪の修理、落下タンクの取り付け・燃料吸い上げの試験、無線機の取り付け・試験。装換するエンジンの入手交渉等、本来、航空廠が受け持つべき多岐な作業に及びました。

 さらに、後藤君の部下11人は、学徒出身で、年齢は彼よりも上で、その統率、健康の管理にも大変な配慮を要しました。

 航空軍司令部への出頭、師団司令部への連絡、など、まさに全身全霊を尽くしての、激務だったのです。

 5月4日、出撃に際しては、整備不良4機を後方に残し、

      当日のエンジン不調による離陸不可能3機

      出撃後エンジン不調で引き返したもの2機

      当日出撃できたのは3機のみでした。

 後藤くんも乗機のエンジン不調で引き返しました。部下を先に出撃させた後藤君の心中は如何ばかりだったでしょうか。

 その後も整備の苦闘は続き、5月25日、後藤君は部下一人と共に出撃し、沖縄周辺に特攻散華しました。

 後藤君の第66武振隊は5人が出撃戦死し、残りの7人はついに出撃の機会が得られませんでした。

 本来、特攻隊は、隊員全機が揃って出撃すべきです。しかしそれが出来なかったのです。後藤君の第66振武隊は、乗機のように惨憺たる経過を辿りました。

 隊長だった後藤君の精神的負担は大変なものだったと思います。

 そのような中でも、彼は新鋭戦闘機が欲しいとは、一言も言いませんでした。彼は与えられた老朽機で最善を尽くしたのです。見事な責任感です。強靭な軍人精神の精華であると言えましょう。老朽機でもいいから、完全に飛行できる飛行機で出撃したい。彼の

「完全ナル飛行機ニテ出撃致シ度イ」

と言うのは、その事なのです。

特攻隊員たちは、どのようにして「死」への覚悟を固めていったのでしょうか

比島戦で、最初に特攻出撃して戦死した海軍の関行男大尉は、出撃の前日

「僕は明日、天皇陛下のためのとか日本帝国のためとかに行くんぢゃなくて、最愛のKAのために行くんだよ」(KAとは妻を意味する海軍の隠語)

と語ったと言われています(御田重宝著 特攻)。

 また、航士57期同期生で、航空士官学校を恩賜で卒業した若杉君は、特攻攻撃のため比島に飛び立つ前夜、台湾の高雄で、

「今まで俺は天皇陛下のため、お国のためと言い続けてきた。自分でもそれを信じ、いや信じていると思っていた。しかし、その言葉にはどうも本当でない部分が混じっているような気がする・・・。」と語ったといわれています(御田重宝著 特攻)。

 本当でない部分とは何を意味するのでしょうか。

 海軍の白菊特攻隊員だった永末千里氏は、その著「かえらざる翼」のなかで次のように言っています。

「一度は死を決意したものの、夜半ふと目覚めて故郷に思いを走らせることがある。そしてまだ死にたくない、何とか生き延びたいという、生への執着に悩まされることも再三あった。

 心を許しあった同期生の間でも、直接この問題に触れて話し合うことはなかった。それは自分自身で解決すべき問題だったからである。そう入っても、人生経験の浅い18歳の若者には相談相手もなく、このような問題に回答を出させるとは、まことに非情である。訓練が続き操縦技量が上達しても、死に対する不安は消えるどころかますます強くなってくる。この生への執着はおそらく最後の離陸の時まで断ち切ることは出来ないのではないかと思われた。

 誰でもいっときの感情に激して死を選ぶことは出来るかもしれない。しかし、理性的に自分の死を是認し、この心境を一定期間持続することが、我々凡人にとっていかに大変なことであるか、経験しないものには想像もできないことであろう。

 それでは特攻隊員はいかにして、死に対する自分の気持を整理し、覚悟を決めたのであろうか。

 まず一般的に死を解決する要素として考えられるのは宗教であろう。

 次に「悠久の大義に生きる」という国家神道の考え方である。当時の精神教育は、これに集約されていたのである。だが真にこれを理解し、これで死の問題を納得することは出来なかった。日頃同僚と会話の中で、『靖国神社で待っている・・・』とか、『軍神になるんだ・・・』等と言っても、本心からこれで死の問題を解決できた者はおそらくいなかったと思う。

 私たちは国家神道を観念的には理解できても、死を解決するには別の何かを求めざるを得なかったのである。

 要するに理屈で解決する以上に、感情的に納得できる何かを求めていたのである。

 私が死に直面して、真っ先に考えたことは、最も身近な者の事であった。親兄弟など肉親のことである。自分が犠牲になることで、親兄弟が無事に暮らすことが出来るのであればという考え方でこの問題に対応したのである。

 おそらく私以外の者も大同小異、この問題を解決する上で肉親に対する愛情が根本にあったと信じている。この肉親に対する愛情が、我が身を犠牲にして顧みない重大な決意を可能にしたのである・・・。」

「かえらざる翼」永末千里著

 日本戦没学生の手記「きけわだつみのこえ」に、慶応大学卒業 林 憲正 氏の遺書があります。

「淋しく小さい反抗でしかないのだけれども、これは私の短い海軍生活より得た苦い苦い果実なのだ。私が海軍軍人として実らし得た成り損ないの哀れむべきこの果実を見よ。形は小さく醜いけれどもその苦味は決して私一人だけが味わうものではなく、この小さな果実を集め、やがて帝国海軍を毒殺する毒となり得るだろう。私は祖国のために、わが13期の仲間のために、さらに先輩の学徒出身の戦士のために、最後には私のプライドのために生き、そして死ぬのである。」

「きけわだつみのこえ」林憲正

 このようにして若い特攻隊員たちは、死の問題を克服するために、心の中で惨憺たる苦闘を経て来ていたのです。

特攻隊員たちを指揮統率した軍司令官や参謀はどうしていたのでしょうか

鹿児島県鹿屋基地にいた同期生の梶山君は次のように書いています。

「昭和20年4月11日、司令部偵察機特攻隊の東田君が出撃し、敵発見に至らず帰還した。その時、第6航空群参謀副長は東田君を面罵した。私はその場に居合わせていて義憤措く能わず、少将を突き刺したい衝動に駆られた・・・。東田君はその翌日出撃し、敵機動部隊発見を報じて突入戦死した」

と。

 敵を発見できなければ帰って来るのは致し方のない事です。天候が悪くて敵艦を発見できないことはやむを得ない事です。エンジンが故障して引き返す事もあります。それでも行って死ねと言うのでしょうか。一つしか無い命を犬死にする訳には行かないのです。それを卑怯者扱いするとは何ということでしょうか。

 覚悟を決めて国のために死のうとする者を面罵するとは何たる傲慢さでしょうか。人を信じ気持よく死に赴かせる愛情は無かったのでしょうか。私はこの話を読み返すたびに怒りがこみ上げてくるのです。

 私は、あの戦争は物量と科学技術に敗れたと思っていました。しかし、戦後の年月がたつにつれて、人間の質に於いても敗れたことを知る事になりました。

 昭和20年1月、私は台湾南部の小港飛行場で、フィリッピンの戦場から引き上げてきた同期生数名に会いました。彼らは口々に「富永軍司令官は特攻機を出撃させるときには『お前たちだけを行かせはせん。俺も最後の飛行機で突入する』と行っていながら、比島作戦が失敗すると真っ先に逃げて帰ったんだ・・・。」と話してくれました。富永軍司令官とは比島にあった第4航空軍司令官富永中将です。

 比島作戦で最初に特攻攻撃を命じた海軍の司令官大西中将は、終戦の翌日自決しました。遺書には次のように書いてありました。

「特攻隊の英霊に曰す。善く戦いたり深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れどもその信念は遂に達成しえざるにいたれり。吾死を以って旧部下の英霊とその遺族に謝せむとす。」

また、沖縄作戦で海軍の特攻隊の指揮をした第5航空艦隊指令長官宇垣中将は、8月15日天皇の終戦の放送を聞いた後、午後4時半、海軍の特攻機11機を率いて大分基地から出撃し沖縄周辺に突入しました。機上からの訣別の電文は次のとおりです。

「・・・驕敵を撃摧し神洲護持の大任を果たすこと能わざりしは本職の不敏の致すところなり・:・・部下隊員が桜花と散りし沖縄に進攻 皇国武人の本領を発揮し・・・」

 出撃を知った連合艦隊司令長官小沢中将は「死ぬなら一人で死ね」と激怒したということです。そしてこの事は、戦後になって「私兵特攻」として批判を浴びました。

 宇垣中将は、部下を道連れにすることの不条理は考えなかったのでしょうか。

 また、富永軍司令官の参謀長だった隈部少将は、家族全員を道連れにして多摩川の川原で自決しました。

 富永軍司令官の前任者であった寺本中将も自決しました。

 私は、特攻作戦を指揮した司令官は必ずしも自決すべきだとは思いません。しかし、富永軍司令官が『俺も最後の飛行機で突入する』と言ったのならば、そうしなければなりません。人間の信義とはそういうものだと思います。戦況や部下を置き去りにして、真っ先に逃げて帰ったといわれては、軍人として最大の恥辱です。

 戦うべき飛行部隊が壊滅したとしても、航空軍司令官の下には、整備部隊も通信部隊も気象部隊も飛行場警備部隊も航空補給部隊も、その他多くの地上勤務部隊が居るのです。これらの地上勤務者は、この後、比島の山野に置き去りにされて、米軍とゲリラの攻撃にさらされ、飢餓と疫病とに苛まれ、その多くが戦死、行方不明になりました。

 私が所属した飛行第106戦隊でも、地上勤務の多数の将兵が戦士、行方不明になっています。

 まさに「一将逃亡シテ万骨枯ル」です。

沖縄戦では

 昭和20年4月1日、米軍は沖縄に上陸しました。

 私は福岡市の蓆田飛行場(現在の福岡空港)で、第6航空軍隷下の司令部偵察戦隊に所属して沖縄捜索に従いました。軍司令官菅原中将は、私たちが航空士官学校で学んでいた時の校長でした。

 同司令官は、強がりやハッタリを言わない誠実な人柄でした。

 同司令官の戦時中の個人日誌が「偕行」誌上に連載されました。それを抄録すると次のとおりです。

* 昭和19年12月26日、第6項空軍司令官親補式(天皇から親しく任命される式)

「軍司令官を拝命し天号作戦に任ずるに当たりて、・・・サイパンの失陥による本防禦線の崩壊にてすでに頽勢の挽回容易ならず、さらに比島戦にて痛撃を加えられ・・・公平に考えてこの戦はとても勝てずとの見極めを付けしなり・・・。」

* 昭和20年3月22日、参謀総長に対する報告。

「決死努力を誓うのみにて、必勝の革新を言ひ得ざりしなり」

「我が特攻隊の集結意のごとくならず、初頭より幸先悪し。未熟の若者を指揮官が焦りて無為に投入するは忍び得ざる処なるが・・・」

* 3月28日、重爆10機をもって夜間船舶攻撃(これは特攻ではありません。僅か10機とは少ないですね。しかし、それだけしか可動機数がなかったのです)

* 4月1日、「ヤブレカブレ的に戦力を投入せざるべからざるか・・・」

* 4月4日、「特攻隊の能力等を考慮すれば、本作戦も亦従来と同様の轍を踏むこと略確実となれり」

* 4月14日、「沖縄沖の敵艦船減少の徴候見えざるがごとく、特攻の効果如何と惑う」

* 4月24日、「戦果確認の問題に対する特攻隊員の苦慮察するに余りあり」

* 4月28日、「出動予定は21機なりしが、出動せしは8機、ああこの状態を何と見る」

* 4月30日、「特攻隊の突入成績不良、憂鬱となる」

* 5月4日、「空中勤務者既に必勝の信念を失いたるか、突入報の少なきが遺憾。戦闘隊の意気消沈、攻撃隊とて褒めた情勢にあらず。」

同司令官は、最初から、「この戦はとても勝てずとの見極め」を持って居たようです。また「人の貭の低下驚くべく、資材の窮乏また恐るべし」と言っています。

そして、この頃までは戦況について日記によく記載されていますが、この後は戦況についてあまり記載されなくなります。これは軍司令官が特攻攻撃に期待を掛け得なくなった為ではないかと思われます。

期待を掛け得なくなっても、5月も、6月も、7月も、特攻攻撃はつづけられていたのです。8月1日には、「参謀連の熱意なきを嘆ず」と書かれています。

終章

 比島作戦の終末期、昭和19年11月13日、第4航空軍司令部は、第5飛行団に対して、全機特攻の命令を下しました。飛行団は百式重爆撃機Ⅱ型で、鈍重と見られた機体でしたが、北海道での猛特訓で対艦攻撃には自信を持っていました。飛行団長は、重爆撃機の特性を理解せぬ命令に強く反対しましたが、しかし、どうせ全滅するのならば、特攻の名のもとに、潔く散らせてやるのも、また一案であろうかと、思い直して出撃を命じました。この特攻攻撃で飛行団全機49人が特攻戦死しました。

 戦争は勝つ為にするものです。作戦は勝つ為に発起するものです。

 しかし、ここでは、特攻は「美学」になってしまいます。

 軍隊を総帥する権限は、天皇の総帥権として、何人も犯すことの出来ないものでした。したがって、特攻隊を編成する権限も天皇の総帥権による筈ですが、「このような非情な戦法を、天皇の名において採用するのは天皇の徳を汚す」と言う事で、天皇の裁可を得なかったのです。

 つまり、天皇の裁可を得ていないのに、天皇の命であるとして、遂行させたのです。

 これは軍上層部の欺瞞です。しいて言えば、形の上では、現地の指揮官が勝手にやったということになります。

 昭和20年5月、陸軍航空本部は、望月技師に、特攻に関する意識調査を委嘱しました。それによると、「熱望した」といわれた特攻志望も、いに反して希望した者の数は、全員の三分の一だったと言われます。

 意外に良心的な意識調査をしたものです。軍人でない望月技師の調査だったので、本音が出たのかも知れません。

 この調査には、次のような指摘も記載してあります。

「御説教的精神教育ハ全ク有害無益ナリ。殊ニ軍人ノ行フモノニ於イテ然リ」

 陸軍航空特別攻撃隊史(生田 惇 著)には次の記事があります。

 沖縄戦前後、特攻隊編成の指示を拒否したために、その職を解かれた飛行団長、戦隊長があった。その主な理由は、「部隊長が率先特攻に任ぜよと言うならばともかく、これまで錬成した部隊から特攻隊を抽出することは、部隊の団結を害し、戦力を低下する」、あるいは「それをやれば必ず勝つと言うならばともかく、勝つ見込みのない作戦に部下に特攻を命ずることはできない」というものである。そこまで行かなくても、特攻隊の編成指示を無視して、あくまで執拗勇敢な通常攻撃を反復した部隊長もあった。

 戦果も期待できないのに、戦争を続けるだけのために、あるいは、「美学」の為に、特攻隊を投入し、若い貴い命が沖縄の海に空しく散らされて行ったのでした。

 まさに、石ころを、沖縄の海に、バラ撒いたに等しいのです。

 いま、旅客機に乗って沖縄に行くとき、南西諸島の上を飛ぶと、美しい島々が見えます。しかし私には、海の底から、敵艦に命中できずに散華した特攻隊員の無念の叫び声が聞こえてくるように思えます。

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コメント

  1. 木村彩子 より:

    お祖父様の貴重な手記のアップをありがとうございます。後藤光春さんは、亡き祖母ゆかりの方です。知覧特攻平和会館で、後藤さんの遺言を目にしましたが、お祖父様の手記を拝見し、その重みに改めて気付かされました。固く受け止めなければと思います。ちなみにうちの祖母も命日が七夕です。とても奇遇なことですね。

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